義経の家来として親しまれ数々の慣用句がのこっている武蔵坊弁慶!
その伝説の生涯は、どんなものだったんでしょう
誕生秘話
創作上では、
熊野別当(くまのべっとう){熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)の統括にあたった役職}の
(『義経記』では「弁しょう」、『弁慶物語』では弁心)が、大納言の姫を強奪して生ませたと言われています。
母親のお腹の中に18ヶ月(『弁慶物語』では3年)もいて、生まれたときには2、3歳児の体つきになっていました。
髪は肩を隠すほどのロン毛で、奥歯も前歯も生えそろっていたということです。
父は、異様な姿でうまれた子殺そうとしたが、叔母に引き取られて鬼若と命名され、京で育てられたとされていますが、
本当のところは、不明です。
名前の由来
六歳のとき、疱瘡ほうそうにかかり色が黒くなり、髪も生まれたときの垂髪のままで伸びず、比叡山西塔の桜本の僧正「くわん慶」にあずけられるが、たびたび乱暴を働き追い出されてしまいます。
比叡山を下りるにあたって、自分で剃髪して、父の「弁」と師の「慶」とをとって弁慶と名乗りました。
牛若丸との出会いと数々の伝説
弁慶は京で千本の太刀を奪おうと心に誓います。道行く人を襲い、通りかかった帯刀の武者と決闘して999本まで集めますが、あと一本というところで、五条大橋で笛を吹きつつ通りすがる義経と出会います。
弁慶は義経が腰に佩(お)びた見事な太刀に目を止め、太刀をかけて戦いますが、欄干を飛び交う身軽な義経に蝙蝠扇を額にはなたれ、返り討ちに遭いました。弁慶は降参してそれ以来義経の家来となりました。まあこの決闘話は、後世の創作のようです。
その後、弁慶は義経の忠実な家来として活躍して、平家を討伐します。兄の源頼朝と対立した義経が京を落ちるのに同行します。一行は加賀国安宅の関で、富樫介に見咎められる。山伏に姿を変えた弁慶は偽の勧進帳を読み上げ、疑われた義経を自らの金剛杖で打のめします。富樫は弁慶の嘘を見破りながら、その心情を思って騙された振りをして通し、義経一行は無事に関を越える事ができたのです。
義経一行は、奥州平泉にたどり着き、藤原秀衡のもとに身を潜めます。しかし秀衡が死ぬと、子供の藤原泰衡は頼朝による圧力に屈してしまい、義経主従を衣川館(ころもがわのたて 現在の岩手県西磐井郡平泉町高館にあったとされる奥州藤原氏の居館 源義経の最期の場所)に襲いました。(衣川の戦い)
多数の敵勢を相手に弁慶は、義経を守って堂の入口に立って薙刀を振るい応戦しますが、雨の様な敵の矢を身体に受けて立ったまま絶命!その最期の姿は「弁慶の立ち往生」と言われています。
また、義経主従は衣川館では死なず、平泉を脱して北海道へ、逃れたとする、「義経北行伝説」にも、弁慶に関するエピソードは沢山あるようです。
弁慶の7つ道具
弁慶の七つ道具という語が文献に出てくるのは江戸時代になってからのようで,その種類も一定してません。
《鬼一法眼三略巻》では弁慶の七つ道具は熊手,薙鎌,鉄の棒,木槌,鋸,鉞,刺股(さすまた)となっています。
浮世絵を見ても絵師によって様々です。
一般的に七つ道具とは、7種に限らず、ある事をするのに必要なひとそろいの道具の意味で使われているようです。
弁慶と北海道
北海道寿都町の寿都湾西口にある。衣川で死んだとされた弁慶は傷つきながらも命を取り留め、ようやくこの地に流れ着き再起の機会をうかがっていたという伝説が残っています。
©画像寿都町HP参照 http://www.town.suttu.lg.jp/tourism/detail.php?id=107
また、北海道で使用されたアメリカ製のテンダー型蒸気機関車の第2号機に付けられた愛称が「弁慶」で
ほかにも「義経」(1号機)や「しづか」(6号機)など弁慶に縁のある歴史上の人物にちなんだ愛称が付けられています。
イラスト
このイラストはイラストACと言うsiteにもsakuzaemonで投稿しているのでよかったら観て下さい。
イラストレーター コタロウさんのsiteはコチラ
http://waltz.kakuren-bo.com/