謎多き源義経(牛若丸)の伝説 鞍馬天狗や弁慶との関係 判官贔屓とは?

源義経(牛若丸)の伝説を見てみましょう。

源義経は、幼名を牛若丸といい、源義朝と常磐御前の間に生まれた平安時代の武将で、鎌倉幕府初代将軍 源頼朝の異母弟になります。

鞍馬寺と天狗

母や弟らと共に囚われてしまいますが、絶世の美女と言われた母常磐御前は、三人の子供の命を助けてもらう代わりに平清盛の妾になります。3人の子供は将来武士になり平家に反旗を翻さ内容出家するという約束のもと命を助けられます。
幼少時は京都の鞍馬寺に預けられた牛若丸は、鞍馬山の奥 ”僧正ヶ谷” に住む鞍馬天狗(鞍馬山僧正坊)に剣術を教わったと伝えられています。

武蔵坊弁慶との戦い

京都の五条大橋での戦いです。
乱暴で怪力無双な弁慶は「1,000本の太刀を奪おう」と考えて京の五条橋の上で、最後の1本である1,000本目を狙っていました。
そこへ18歳の義経(牛若丸)が笛を吹きながらやってきます。弁慶は襲撃するも軽やかに宙を舞う牛若丸!
弁慶は薙刀を振るい挑みかかったものの、牛若丸は、身を交わし欄干から飛び上がると弁慶の額めがけて蝙蝠扇(かわほりおうぎ)を放ちました。見事に返り討ちに遭った弁慶は、降参。弁慶は生涯義経に仕え源平合戦でも活躍したと言われています。

 

戦の天才

一の谷の戦いの前哨戦と言われている三草山の戦いでは、山野全体に火を放って目くらましをしたあとに奇襲
一の谷の戦いでは、鵯越の逆落とし(ひよどりごえのさかおとし)と呼ばれる奇襲によって、兵力が小さい源氏が兵力の大きい平氏を敗走させました。
鵯越の逆落とし(ひよどりごえのさかおとし)とは、合戦の場である一の谷の裏手にある断崖絶壁の上にある鵯越に立った義経が、「鹿が降りられるところなら馬も降りられるはずだ」と言って駆け下りた、というものです。
屋島の戦いでは、通常3日はかかる道のりを船を使って数時間で移動します。平氏側も義経達の船団が来ることを予想して陣を固めていましたが、まさかの平氏の背後に回りこんでの奇襲攻撃。
又、壇ノ浦の戦いでは、甲冑を身に着けたまま6メートルも飛んだとされる八艘飛び(はっそうとび)の伝説も有名です。

なぜ?兄頼朝との確執

一つ目の要因は三種の神器
三種の神器は、「八咫鏡」(やたのかがみ:神鏡)、「八尺瓊勾玉」(やさかにのまがたま:神璽)、「草薙剣」(くさなぎのつるぎ:宝剣)があり、いずれも天皇の証として重要な物です。
しかし、義経が最終決戦の壇ノ浦の戦いで平氏を追い詰めた際、草薙剣は「安徳天皇」(あんとくてんのう)と共に海底に沈んでしまいます。平家は滅亡させたもののすべての神器をそろえて朝廷に返すことができませんでした。

*フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)より

壇ノ浦合戦後に、頼朝の許可も得ずに勝手な振る舞いをしていたことにもあるでしょう。
朝廷からの官位を許可もなく受けた義経を許すわけにいかなかったようです。

後白河法皇の策略説もあります。
源氏が台頭する世のなかをよしとせず、天皇中心の政治に戻したいと考えていました。そこで兄弟を争わせたようです。

いずれにしても、頼朝は、後継者になる我が子頼家のことを思うと、災いの種になりそうな義経は消してしまおうと考えたのかも知れません。

(ほうがんびいき)

人々が、源義経に対して抱く、同情や哀惜の心情のことです。
不遇の英雄、弱者や敗者、また実力や才能はあるのに待遇の悪い人たちに同情心や贔屓心をもつこと。弱い立場の者に対して同情して味方をし、援助することです。
日本人の心情としてあるあるです。
ただ実際には、義経も下心があったかも知れませんね。

「判官」の読みは通常「はんがん」ですが、『義経』の伝説や歌舞伎などでは伝統的に「ほうがん」と読むそうです。

イラスト

大好きな「最後の浮世絵師」と言われる月岡芳年の”五条橋の月”を題材にオリジナルのイラストを描いてみました。

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このイラストはイラストACと言うsiteにもsakuzaemonで投稿しているのでよかったら観て下さい。

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